肉食べるし酒飲むし異性と性行為する坊さんってアリなの?

コラム

居酒屋で店長をしている友人から、こんな質問をされたことがあります。

頭を丸めた人達が忘年会で来てさ〜、「お坊さんですか?」って聞いたら「そう」って言ってたんだけど、お坊さんってお酒ダメだよね?しかもウチ、焼肉店だし・・・。

次に配信アプリを通じて仲良くなった、元風俗嬢の方からこんな質問をされたことがあります。

明らかにお坊さんのお客さん多いんだけど、そういうのアリなの?

現場で働いている方でなかったとしても、この記事を読んでくださってる皆さんであれば、1度は疑問に思われたことがあると思います。

この記事では元坊さんだからこそ言える事実僕なりの解釈を話します。

最初に結論からお伝えします。

肉食も飲酒も異性との性行為も
感謝の気持ちがあれば問題ない

と僕は解釈しております。

その理由を書いていきます。

お坊さんだからこそ守るべきルールとは

不殺生

この単語を見たことのある方、多いと思います。

「生き物をみだりに殺してはいけない」ことを意味している仏教用語の1つです。

現代でいう就業規則のようなもので、その代表的なものの1つが「不殺生」になります。

それ以外にも

「不飲酒」
飲酒をしてはいけない

「不邪婬」
淫らなことをしてはいけない

などの規則のようなものがあります。

この規則のことを仏教用語で「戒律」といいます。

信徒が守るべき行動規範で本来、出家者(世俗を離れ仏教に帰依するもの)と在家(出家せずに世俗の生活をしながら仏道に帰依するもの)に共通のものです。この戒は「~してはならない」ということではなく「~しないようにしよう」というものであり、これは仏教者が仏教者であることを自覚し、それにふさわしい習慣を身につけようとする自発的な心に基づいてると言えます。

引用元:お寺の窓口 第一回コラム「戒律について」

規則には限界がある

しばすけが坊さんだった頃の実例

会社には就業規則があり、学校には校則があります。

これら規則を破ると会社であれば減給や懲戒処分。学校であれば停学や退学などの処分があります。

では坊さんの世界ではどうでしょうか

数多くいる坊さんの中で、僕が坊さんをしていた時の実例をお話しします。

お肉は食べてましたか?

しばすけ
しばすけ

毎日と言っていいほど、食べてました

お酒は飲みますか?

しばすけ
しばすけ

好きです。ちなみにウイスキーが好きです。

お坊さんの時、性行為してました?

しばすけ
しばすけ

はい。してました。

これらすべてが事実です。

「だから坊さんを辞めることになったんじゃないの?」

答えはNOです。
この話についてはプロフィール文にまとめてあります。

ではなぜ、肉食も飲酒も異性との性行為も規則を破ったことにならなかったのでしょうか。

ここからは具体的な話をします。

修行期間での体験談

前提としてすべてのお寺で該当するわけではありませんが、僕が所属していた宗派(グループのようなもの)では坊さんとして人前に立つには資格が必要になります。

そしてその資格を取るためには一定期間、山奥にあるお寺に籠る必要があります。

イメージとして
運転免許をとるために合宿で取りに行く感じです。

運転免許をとるためには座学も実習も必要なように、坊さんも座学と実習が必要です。

その実習期間は、自分が持っているスマートフォンは持ち込めないだけでなく合宿場にテレビもなく外出は厳禁です。
それだけでなく起床時間や食事の時間、入浴、就寝時間、すべてのスケジュールが決められている環境で、食事は精進料理。

こんな環境に一定期間、身を預けている自分を想像してみてください。

「2〜3日くらいなら何とかなる!」

と思われた方。具体的な期間は伏せますが1ヶ月を超えることはお伝えしておきます。

当然ストレスは計り知れないものでした。

修行を終えた後の失敗談

ストレスが溜まったら皆さん、どうされますか?

発散しますよね。

僕もそうです。

行き先は某 焼き肉チェーン店

僕以外にも修行を終えた一種の同志とともに、テーブルに乗らないくらいのお肉を注文しては食べきり、同じくらい注文しては食べきる。この繰り返しです。
同時に大好きなウイスキーで割ったハイボールを浴びるように飲みました。

この後どうなったか。

とあるモノを口から
トイレはもちろん、いろんな道に出すことになりました。

二日酔いの苦しみから解放された頃、当時お付き合いしていた女性の家に行き「修行を終えたお祝い」を名目にケーキを用意してくれました。

こんな優しいことをしてくださった女性に対し、当時の僕はケーキを用意してくれたお礼を簡単に済ませ、性的発散をムードも関係なしに済ませようとしたのです。

当然のことのように別れることになりました。
(その時お付き合いした方とは現在、和解し今も仲良くしております)

体験をもとに痛感したこと

さて今回、あえて僕が思う最悪な体験談を紹介させていただきました。

この体験を踏まえ僕なりの解釈は

過度な制限はストレスになり、結果として過ちに繋がる。

と考えています。

その上で、なぜ僕なりの解釈が「感謝の気持ちがあれば問題ない」と思うのか。このことについて書いていきます。

仏教の規則に隠された真実

仏教では肉食を批判していない?

僕が坊さんの頃の話です。
ヴィーガン食の方に「不殺生って言っておきながら肉や魚を食べるのは意味不明!」
と言われたことがあります。

その言い分は十分にわかります。

僕も坊さんの世界に足を入れた直後の食事が「豚の生姜焼き」だったことに驚いたのを今でも覚えています。

ただ一旦、冷静になって考えてみると人間である以上、何かを食べる必要があります。

人類は大昔から動物や植物を食べ、生き抜いて来たことは事実です。

それなのに「不殺生」を定めると人間は生き抜いてこれたことに矛盾が生じてしまいます。

なぜなら仏教では動物はもちろん、植物にも命が宿っていると捉えているからです。

農家の方や花などの植物を育てている方ならイメージしやすいと思います。

「命を奪った食事」=肉食と捉えてしまうと同時に坊さんは動物食だけでなく植物、つまり野菜も食べられないことになってしまいます。

この不殺生に関する問題について天台宗のサイトには、このように書かれております。

私たち人間は自然界のなかで、もっとも脆弱(ぜいじゃく)な生き物であります。そして、植物であれ動物であれ、そのいのちを殺生し、食糧として口に入れなければ、生き続けることはできません。(中略)
生きるために殺生し、これからも食糧として殺生し続けなければならない人間に、なぜ、お釈迦様は不殺生を説かれたのでありましょう。
立派に成長した野菜が茎から切り離される。米・麦が穂から刈り取られる。精進の野菜のみを食し、魚類・家畜の類を食するな。と説かれたのではなく、私たち人間のために差し出された、すべてのいのちに感謝しなければならない。とお諭しになられたのであります。
どのいのち一つをとっても、単独で存在することはできません。必ず他の生き物との支え合いによるものであり、たった一つだけでいのちを繋ぐことはできません。

出典元:https://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=119

つまり暴飲暴食のようなストレス発散のための食事ではなく、大事に味わうことに意味があると考えています。

坊さんの性行為を禁止したら?

もしかすると、この記事を読んでくださっている方の同級生に「家がお寺」という方、ゼロではないと思います。

「家がお寺」とは
その同級生の親が坊さん。ということを指します。

坊さんの仕事は一種の職人のようなものです。

実家の親父が亡くなったら家業を継がないといけない

そんな方がいるように、坊さんの世界もいつかは継ぐ必要がある業界です。

では坊さんが性行為をしない、つまり子作りをしなかった場合を考えてみてください。

少子高齢化に繋がることはもちろん、サラリーマンとして仕事をされている方を坊さんとして迎え入れる必要があります。

坊さんとして迎え入れるには、現職は辞めていただき例の一定期間ある山籠り修行を強制されます。

それがわかってて、わざわざ現職を辞めさせてまでも坊さんの世界に引き抜かなくては、いずれ坊さんはいなくなり、お寺は廃れ、お墓を守る人がいなくなってしまいます。

この例え話は結婚、もしくは交際している男女についての話です。

当然のことですが、無理やり体の関係を求める行為は犯罪です。

交際相手がいるのに、それ以外の異性と性行為するのは不倫、浮気と捉える方が大半だと思います。

ここで大事なのは誰かを傷つけることなく互いに感謝し合えているか。だと僕は捉えています。

まとめ

「お坊さんなのに肉・酒・性行為アリなの?」

この疑問がこの世からなくなることは無いと思っています。

なぜなら、坊さんと本音で接する機会がないからです。

飲食店で例えるなら、食事を提供してくれた店舗へ食事代を支払う行為は、食欲を満たしてくれたから、そのお礼としてお金を出します。

ただ坊さんに対しては、何を満たしてくれているのか不透明だと思います。

こちらのツイートをみると「坊主丸儲けやんけ!」と思ってしまうのは仕方がないことだと痛感しています。

不殺生や不邪婬などは仏教用語。
その用語を扱うのは坊さん。

不透明な仕事をしている坊さんに、感謝と関連づけるのは至難の業だと思います・・・。

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